七月三十一日 TOP
空気の読めない大人がいる。
空気を読む……認知しているフィールドの状況を把握し、そこにどういった形でコミットしていくか、という能力は対人関係において非常に大事なスキルである。いわんや一国の政権を担うトップに置いては、絶対の条件であろう。
どんな政策を取っていくかということはもちろん大事だが、イメージだって大事である。イメージを大事にするということは国民の意識を把握するための努力をしているということだからだ。どうも、安部首相は言ってること、やってることはまともなのかもしれないが、自分が国民にどう見えるか。もしくは国民にどう見せたいか。という視点が欠如している気がする。
どんなに正鵠を射た話であっても真面目に聞いて貰えなければ意味が無い。その為に、相手の意識をどうやってこちらに向けるかということに対して、安部首相は純朴すぎるのだろう。純朴さは政治家の資質としては時として装うことは必要でも、それが本質であるなら一国の首相としての瑕瑾となる。
結果的に、今の安部首相の言動を聞くと振り込まなくて良かったと安心してしまうのだが、それはそれとして
今の総理を後釜にすえた前首相は公約通り見事に自民をぶっ壊したわけだけど、これって想定内なんすかね。
七月二十八日 TOP
選挙ですね。
現在午前三時、主要政党を集めて田原が司会っぽいことをやっている。政治は難しいもんだと思ってたんだが、歳入歳出の事務所費問題で自民党が叩かれている。くだらない問題を何で延々と何やってんだべ。もっとこうさ、オレ如きではわからないような高度は政治の話しようぜ?
しかし、今回の選挙どこに投票したらいいのか迷っている。麻雀に例えると共産、社民、○○党は裏筋ど本命、捨てたら倍満、跳満、役満振り込みそうで恐い。とても切れない。
。 自民or民主はまだマシっぽいが、民主は投票したら自民党と官僚の関係が改善されそうだけど、経験値不足そうで信用できん。危険は少ないが下手にあたり牌だと満貫払いはいってそうだ。逆に自民は当たりは当たりでもまだ安手っぽいのだが、危険牌で信用できないあたり民主党と五十歩百歩だったりする。
どうも……日本の政党には安牌が無いように感じる。どこに投票してもロンされそうな不信感で一杯だ。
点棒(金)の払いは政治家じゃなくて国民なんだよなぁ。
七月二十三日 TOP
何時だったか忘れたけど、スタジオで録音したやつ
音割れしてる……。
レスポールに、マーシャルDSL100、DS2で歪ませてTS9でブーストしてたと記憶しております。DSL100ってTSL100に比べるとミドルの抜けがいいと思うんだけど、それでもイマドキのドンシャリ音になるから微妙な感じ。まぁ、個体差が大きくて違うスタジオのだと良い音するんだけど。
そして、この曲のダウンピッキングが鬼すぎて途中から、とても苦しくなってる部分は笑って許して頂きたい。腕がつりそうになって笑いがとまらないんですよ(ぇ
クリーンとかクランチなら宅アンプでもいいけど、激歪みはやっぱしデッカイアンプだよなぁ〜〜と再確認した昨今……。
七月十七日 TOP
最強の五十歳、ビリー・フランクスが近頃の日本ダイエットの主流になっているようだが、ダイエットの本場であるハリウッドではもう古いようだ。少し前にディスカバリーチャンネルでアトキンス式ダイエットが紹介されていた。日本のダイエット番組(というか民法放送の八割)をオレは信用していないが、オレの見る限りに置いてディスカバリーチャンネルは事実検証をきとんと行っていて、民放特有の異常な脚色も少なく、視聴者を舐めていないという一点に置いて、ある程度なら信用できると感じるので挑戦してみた。
アトキンス式ダイエットというのは簡単に言えば、米、パン、小麦などの炭水化物の摂取を抑えることで、脂肪を消費しやすい体質に移行するというものだ。人間の体はアルコール>炭水化物(糖質)>脂肪の順に消費していく。そこで炭水化物を抑えることで、人体は脂肪を燃焼させてエネルギーに変えだす。この方法なら炭水化物以外なら何でも食べてOKということで、肉食の欧米人には成功率が高く、お陰でハリウッドではポテトの売上が激減してドナルドが困っているらしい。
アメリカ人は単純だなぁ〜〜とか笑ってしまったのだが、挑戦して二週間……凄い勢いで体重が落ちて驚いている。中学時代に買って履けなくなっていたジーンズが履けちゃったよ……。ちょっと自分でも信じられないくらい効果があって恐い。さすが体重の増減が生活水準の増減に直結するハリウッド式のダイエットである。
しかし、この方法だと炭水化物を断つだけで空腹感は無く楽なのだが、少しばかりツライ点もあった。頭に栄養が回らないからなのか、倦怠感が付きまとい、空腹感は無いが、御飯を食べないと満腹感も無いので常に夢うつつな感じになってテンションが変になるのだ。それと、落ちているのが脂肪じゃなくて、筋肉だったらどうしようという恐怖も付きまとってくる。なので、目標体重まで落としたら徐々に戻そうと思った。そもそも、このままだとオレにとって、生きる喜びの大半を失ってしまうことになるのだ。
バフンウニを食べながら、旨い日本酒を呑みてぇのだ。
七月十三日 TOP
片道200`の道のり、岩手県は盛岡の県立美術館でピカソ展を開催しているというので見てきた。ピカソだぜ? 無教養のオレでも名前くらいは知ってるピカソだぜ? 死ぬ前に一度は見ておきたいリスト、ベスト50には入りそうなので高速を使わず仙台→盛岡直通の四号線をひたすら五時間かけてドライブ。十時に出発して付いたのは三時過ぎだった。その間ずっと直進していればいいのだから日本の道路は問題は多いが素晴らしいとこのときばかりは思った。
岩手県立美術館は、我が街にある宮城県立美術館とは違いとても風光明媚な自然と人工物の調和の中に建物があった。建物も立派でハリウッドのSF映画に出てきそうなトイレだった。ピカソ展の入場料は千円、宮城県で先ほどやっていた曖光展は800円……まぁ、いろいろな思いが去来したが安いので問題ない。
中に入ると、若い頃から途中が飛んで、晩年の作品までがズラ〜〜っと並んでいた。 若い頃の作品は「絵」として認識可能だが、晩年の作品になるとオレのようい美術に疎い人間には「絵」に見えないのである。例えれば一人の人間が時間軸に添って表す様々な「要素」を平面に一度で全部描いちゃったような印象を受ける。 「好き」という感情が同化し取り込みたいという欲望ならば、オレはピカソは好きじゃないのかもしれない。 とか言いつつ、常に見ていたいとも同時に思うのだ。そういった凡骨に二律背反の感情を喚起させる何かがあるのだろうと一人納得する。そして、記念の意味も込めて気に入った……というよりは理解不能だった絵のポストカードを購入し、盛岡名物の冷麺とジャージャー麺を食し、片道200`の道のりを帰った。
往復の移動だけで十時間。帰りは友人に運転してもらったとはいえ長い道のりだった。
七月十一日 TOP
唯一の録音機材、R1がだいぶ前に修理から帰ってきたのだがそのときに、嬉しくて気の向くままに弾いてたのをUP。アレね。恥ずかしいね。
ベースもドラムも無いときはアルペジオに限るわけで、けど相変わらずワンパターンな進行の上に梅雨入りしたのでネック反って音が変。 ええ、言い訳ですさ。
そういや、あんまり音を加工するのは好きじゃないのだが、使ってるフリーの編集ソフトで24ビットの音質に変換できるのを知った。けど、恐いのでやめときました。 24ビットだと、音質が良くなるけど、オレの未熟なテクが更に強調されるので、こえええええ。
七月三日 TOP
月が替わる。タグをいじりいじり七月分のテンプレートを作成。まったく面倒だがコレをやらないとオレはきっとダレる。どうでもいいことしか書いてないのに、さらにどうでもいい感じになってしまうので、心のメリハリには大事な作業なのだ。
どうでもいいと言えば、いつだったか本で読んだ話を友人にしてみたら。それとまったく同じことを友人が考えていたのだ。いや、恐らく考えていないし、オレもその時まで理解して話していたわけではなかったと思う。彼はその話をまったく違う次元の体験から学び、オレは聞きかじった本で読み、彼との会話で実感を始めてともなったのだ。彼もオレとの会話で体験として漠然と身体にあったものが、初めて意識下に知覚されたんじゃないかと思う。勝手な想像ですが。
ただの情報交換や駆け引きとは違った、他愛無い対話の面白さってココにあるんじゃないかと思うのだ。自分自身分かってない「何か」を「誰か」に話す(この時はメッセだったけど)ことによって初めて整理されてくる、完全に整理されるわけじゃないのだが、なんだかわからないけど、頭の中にあった「何か」を伝えようとすることで初めて実体をともなって理解できるのだ。
オレなんかはその「何だかわからないもの」が、「何だかわからないまま」に頭の中にあるから、この時のようにMTG関係の話からシフトして、頭の中にあった漠然としたものが口から勝手に飛び出してしまうのだ。勝手に口から飛び出しちゃったもので、本人もよく分からないまま口走っているのだが、相手もそれに近い「何か」があったりすると、両方よく分かってないのに、「何だかわからないもの」の形が見えてきちゃったりするから不思議だ。大抵は喋ってる最中自分の会話の先が見えないのだが、自分でもわからないまま伝えようと捏ね繰り回すうちに、あぁ、オレが言いたいことはこういうことなんだったんだな。と事後的に理解する。いや理解していたことを実感する確認作業だったりするのが、他愛無い対話の面白さじゃないかとオレは思うのだ……まぁ、なんだかわからない話になってしまった。こういうことを対話じゃなくて一人で暇してるときに、ぶつぶつ考えて書いてるから整理できないのだ。難儀である。
稀にあるこういう経験をすると、その時に対話した相手との相互理解が深まったと感じるから便利なものだ。しかし、どうせなら酒が入ってるときに、こういう話はしたいもだ。何故かって? それこそ輪をかけて話が脱線していくと期待できるからだ。
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